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大人は自分で自分に「読み聞かせ」をしている。子供は絵本、大人はドラマ。架空と現実の区別が無い世界。

しばらく止めてたTVドラマの視聴。再び観るようになってからふと気付いた。

 

ドラマ視聴って自分に「読み聞かせ」してるのと同じやんかとね。

 

なぜ子供も大人も「日本昔ばなし」を好むの?実際に出来ない体験を脳内でしたいから

 

幼い頃はテレビ番組の「日本昔ばなし」が大好きでした。

 

むかぁし昔のことじゃったぁ。あるときおジイさんが川で芝を刈っていると、山頂から大きな桃が、ゴンゴロロ、ゴンコロロと転がってきたそうな。。。

 

おバアさんは鬼ヶ島に鬼退治に出かけたまま帰ってこなかったそうな。

 

心配したかぐや姫は一寸法師と雪女を連れて、桃太郎退治に出かけてしまったぁ。

 

珍道中の道すがら、峠でAさんが6人のお地蔵さんと一緒に笠をかぶって座っていた。

 

Aさん
Aさん

こんなデタラメな昔ばなし、どこにあるねん。タイトルは何やねん?

 

タイトルは「日本昔ばなしだよ全員集合!オィーッス」です。

 

今テキトーに思いついたのはゆーまでもない。

 

でもね、こんな物語を聞いてるだけで、自分が主人公になって、鬼ヶ島に行ったり、雪女と恋をしたりと、ストーリー展開だけで、実際の体験をしたような錯覚におちいってしまうでしょ。これが脳内体験です。

 

鳥さん
鳥さん

脳内体験どころか脳内錯乱にしかならないクワーッ!

 

モノを語ることによって「モノ語り」すなわち「物語り」になるのです。

 

この記事も一種の「物語り」なのであります。

 

Aさん
Aさん

脳内錯乱物語なのであります。

 

さぁ、冗談は顔だけにして、ここから真剣にモノ語ってまいります。

 

子供が物語を読んで聞かせて欲しいのは脳内体験をしたいから

 

読み聞かせが必要なのは子供だけじゃありません。

 

私も思ったので調べてみるとこんなページもありました。

 

絵本には「考える力」と「想像力」を鍛える力があるとか書いてますが、当然だと思います。物語、つまりストーリーにはすべてが詰まっているのだから。

 

全てが詰まってる全てが学べる

 

言葉を覚え始めた子供が、自宅にいながら多くの体験をするのは無理でしょう。

 

そこで「さるかに合戦」「花咲かじいさん」「笠地蔵」のように人生の教訓となるような教えを物語の中に仕込んでおく。

 

いや仕込んでおくというのは語弊があるかな。

 

むしろ私達の人生ってストーリーそのものですよね。

 

生まれてすぐ子供になって、それからになったり、生徒になったり、になったり、教師になったり、おじいちゃんおばあちゃんになったり。

 

人生ストーリーが進むたびに、色々な役割を演じられるでしょ。

 

日本昔ばなしに例えると、桃太郎になったり、時にはキジ役になったり、イヌ役にされてしまったり、サル役にならざるをえなかったり。

 

さるかに合戦 日本昔ばなしサルに成るといっても、「さるかに合戦」のサルの場合もあるし、「桃太郎」のサルの時もある。そしてまた孫悟空のサルだったり。

 

人生は生まれてからズーっとストーリーの連続なんですね。

 

今この記事を読んでいるアナタ、あなたですよ、あなた。

 

アナタは今、家庭では何の役をしてる?職場では何の役なの?

 

3歳の子供は、柿の種も何か分からない。カニって動物すら知らないかもしれない。植物に水をあげることすらまだ知らないかもしれない。

 

そんな断片の知識や体験を、ひとつの巻物につなげてストーリーとして作品として、言葉に直して耳で聞く。それが脳の発達にもなり、なんらかの脳内体験をしている。それが「読み聞かせ」の効果と意味なんじゃないでしょうか。

 

子供は「読み聞かせ」のストーリーで人生の予行演習をしているのだ

 

もう一度、この記事の最初の2行目と同じこと書きますね。

 

ドラマ視聴って自分に「読み聞かせ」してるのと同じやんか

 

  • 「ドラマ・女王の教室」って大人への「読み聞かせ」なんじゃないのか?
  • 「ドラマ・まだ結婚できない男」って大人への「読み聞かせ」なんじゃないのか?

 

だって、別の人生を脳内で体験しているかのような楽しみがあるんだもん。

 

そして同時に子供時代に様々な物語を楽しんだ記憶を思い出したから。

 

もう小学校になったときなんかは自分で自分に読み聞かせていましたよ。

これらは一例ですが、特に江戸川乱歩の自由な語り口調風の文体に憧れてました。夢中で読んで物語や表現を学んでました。

 

思えばこのブログ自身、そして私みちの書く文体は、この江戸川乱歩の少年探偵シリーズが土台にあるのではと思えるくらい。

 

なんだか自由というか、江戸川乱歩のようなストーリー最後まで考えずに行き当たりばったりで作る作風そのもののような気がするのです。

 

江戸川乱歩って、ある程度ストーリーの構想はあったみたいなのですが、思うままに書き進むものだから最後つじつまが合わなくなりどうしようもなく途中で止めみたいな時もあったそうですね、ホントかどうかは知りませんが。間違ってたらごめんなさい。

 

編集後記

 

さぁ、もう終盤にしよう。

 

乱歩のようにいちいち構成を細かく考えずに書いてきたので、今日もまたここまで書き進んだ時点で収拾がつかなくなり、無理やり終わりに入ろうとしているのでありました。

 

だって、見出し先に考えても、書く詳細が全然中身違うんだから、後から戻って修正したりですわ。えらい時間かかってるなぁ。

 

指の動くがままキーボードを入力したい。

いちいち推敲を繰り返して時間を長く使いたくない。

 

といいつつも、ここまでくるのに既にあれから3時間近くかかってる。どこが短文記事なんやろうか。ちっとも早く終わらない。

 

えーいもう今日は終わりたい、ということでこの辺でさようなら、また次の記事で会えたら会いましょう。

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